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お知らせ

追悼文 故有賀槐三名誉理事長のご功績を回顧して

理事長 荒川 泰行
(日本大学名誉教授)

 日本消化器がん検診学会名誉理事長で,昭和58年5月春の叙勲で勲二等瑞宝章の栄に浴されました有賀槐三先生(日本大学名誉教授)は,明治44年2月12日に長野県諏訪郡においてお生まれになられましたが,98歳の大変な年崇を重ねてこられて,なお矍鑠として長寿のみならず健康な生活を日々享受されておると思っておりましたが,平成21年4月15日(水)突然の訃報に接し,ただただ驚きを隠し得ませんでした。「無常の風は時を選ばず」とは,人の世の定めとは申しますが,今,心よりご冥福をお祈り申し上げる次第です。

 有賀先生は,昭和4年3月に長野県立諏訪中学校(現清峻高校)をご卒業になられた後,日本大学専門部医学科にご入学されまして,そして昭和9年3月にご卒業になられました。同年4月に日本大学附属病院内科に勤務し,日本における臨床生化学の開拓者のお一人であった恩師の八田善之進先生のご薫陶をお受けになられました。副手,助手を経て昭和13年2月には医局長になられましたが,八田善之進先生のご指導によって物質代謝,ビタミンと癌などについての研究に興味を持つようになられました。さらに,生化学の勉強のために志賀 直教授の下で臨床と基礎をかけもちで,応召されるまでの約2年間研究に従事されました。その時の成果が「ビタミンAの破壊に関する研究」であり,また「超音波の生物学的作用に関する研究」でありまして,昭和14年~18年に毎年生化学学会総会において発表して大変な反響と高い学術的評価を受けられました。また,川島好兼先生によって患者の診療,特に消化器疾患について深く教えられる中で,昭和15年4月に講師に,さらに昭和19年4月には助教授(専門部)に昇任されましたが,しかし同年2月に応召(金沢師団後宇都宮師団司令部付軍医)されて,昭和20年9月に解除される迄軍隊生活を余儀なくされました。

 戦後復員されて,昭和21年1月には当時疎開していた岡谷日本大学病院の内科部長にご就任され,同年5月に医学博士号(東京大学)の称号を授与され,さらに同年6月に助教授(医学部)になられました。そして,翌22年4月には岡谷を引き上げ駿河台日本大学病院八田内科に復帰されました。八田善之進,川島好兼の両先生によって昭和2年の創立以来育まれてきた駿河台日本大学病院内科は戦後大きく変貌し,両先生の相次ぐ定年退職後に大学の発展と組織改革によって2講座の内科学教室(桜沢および比企教授)が確立され板橋キャンパスに主体が置かれるようになりましたので,その結果駿河台日本大学病院内科は比企内科に合流し,有賀先生は昭和26年6月には比企内科の教授に昇格されました。その後,昭和29年5月15日に駿河台日本大学病院に第3内科学講座が新設され,有賀先生が主任教授に任命されました。 このようにして,有賀先生は以後内科学の研究,診療,および教育の指導にあたりながら医学部内科学の揺籃時代を力強く歩まれ本学の発展に大きく貢献されました。有賀先生の研究分野は,教室開講の当初は「超音波の生物学的作用及び超音波療法」, 「悪性腫瘍,動脈硬化症,糖尿病と肝疾患を中心に展開した濾紙電気泳動法による血清蛋白質及び複合蛋白質の臨床生化学的研究」, 「位相差顕微鏡を用いた赤血球抵抗及び溶血に関する研究」等が主なものでありましたが,いずれも医学研究の歴史に残る思い出多い研究題目でありました。有賀先生は教室員に対して,常に良き臨床医の育成を主眼にして「臨床は内科学のどの分野にも精通して,その上に専門を持つことが大切である。 また,研究者である前に内科医であれ,内科医である前に人間であれ」と悟され厳しく指導されましたが,このことは今日の日本大学の医学教育の理念としても脈々として受け継がれてきたと思います。また,当時研究費も乏しく,施設も十分でない環境の中で,いろいろな悪条件を克服されての新しい教室作りには大変なご苦労とエネルギーを要したと思いますが,「母校出身者の評価を高めねば,どこの大学の内科にもひけをとらない内科にしなければ」という新進の気に満ちあふれた熱い情熱を持って夜遅くまで研究生や助手の指導にあたり,なによりも先生ご自身が教室員と一緒になって大変頑張られました。 一日として席の暖まる時がないような生活に明け暮れた有賀先生と教室員の直向な努力が実を結んで,より広い,より深い研究へと発展し,着々と成果を上げられるように至った足跡を回顧する時,改めて先生の大学人としての偉大さと多くの有能人材を教育・輩出してこられたご功労に頭が下がる思いであります。先生の高潔で誠実なお人柄,並外れたエネルギーと行動力は,私ども多くの門下生に敬意と感謝の念を持って永く語り伝えられていくものと思います。

 今日全国各地において様々な癌検診あるいはドック健診等が広く行われていますが,これらの源流は胃集検にあることをご存知でない方もおられるかもしれません。有賀先生は,長野県下伊那郡智里村(現阿智村)が肺結核,脳卒中,胃がんの死亡率が高く,また回虫症の多発地帯であったことから,村の要請を受けて検便,血圧測定,胸部X線間接撮影等を昭和28年から実施して村ぐるみの健康管理を行い,多大の成果を上げられました。また,その一環として,結核検診から着想して胃がん対策に取り組みX線間接撮影法がこれに利用できるかどうかについて検討して一応の成果が得られましたので,昭和30年智里村住民40歳以上の165名について問診,腹部診察,そして胃X線間接撮影法を実施して,有所見者を拾い出しこれに胃直接X線撮影で精密検査をするという胃集検を実施しました。この方式による胃がんを目標とした胃集検が可能であることを実証されました。さらに,翌年の昭和31年夏には同じ方式で下伊那郡10 ヵ村の住民3,000余名について胃集検を実施しましたが,これが本邦最初のフィールドでの本格的,かつ組織的な胃集検であり,恐らく世界で最初のものでありました。このようにして,有賀先生は胃癌検診のパイオニアとして大金字塔を打ち立てられたわけでありますが,胃癌検診への学会のみならず社会的にもクローズアップされる中で,昭和34年に世話人として結成した胃集団検診による「胃癌研究連絡会」を発足,さらに昭和37年以後「胃集団検診学会」に発展させて理事長にご就任され,そして第一回総会を会長として主宰されました。その後,「胃集団検診学会」は,有賀先生の手で昭和57年学会満20年の第21回総会から「日本消化器集団検診学会」へと名称を変更して発展の一途を辿ることになりました。その間,胃疾患の基礎的X線検査法として立臥位4枚撮影法の考案と薄層法の撮影装置の試作,またこれを主体とした胃がん検診方式の確立と精度管理に関する研究を積極的に発表されるなどして,消化器集団検診を新しい研究分野として位置付ける努力をなされました。有賀先生は,昭和57年に消化器癌検診の研究と実践の限りない発展を慧眼して,多額の浄財を当学会に寄付された基金の果実によって「有賀記念学会賞」を設立し,昭和58年より学会の目的達成のため顕著な研究業績を上げた会員を表彰する制度を発足させました。ちなみに,平成20年までの26年間に延べ54名の会員の方が本賞を受賞されていますが,これによって鼓舞された会員の方も少なくないと思います。不肖私は,平成7年4月20日(木)~22日(土)に第34回日本消化器集団検診学会総会を会長として主宰し,恩師でもある有賀理事長より評議員会で感謝状を授与されましたことは生涯忘れられない思い出であり,またその学会の折に有賀先生より「荒川君,君は僕の辿った道と同じ道を歩んでいるね」という一言を頂いたことに感激し,その後その一言が教授に就任して間もない私にとって大変大きな励みとなりました。

 一方,X線診断法の研究とともに,いち早く胃の内視鏡診断の研究にも着手し,初めは軟性胃鏡,次いで胃カメラと,内視鏡機器の発達とともに胃集検による発見疾患,すなわち胃癌,慢性胃炎,胃潰瘍,ポリープについての疫学的あるいは臨床的研究も進みましたが,特に早期胃癌の診断に関する研究には胃集検が大きく貢献しました。有賀先生が永年にわたってわが国の胃癌検診の研究と実践の進歩に果たしてきた功績は計り知れないものがありますが,その多大なご功績に対して「日本対がん協会賞」を受賞されました。

 有賀先生は, 「わが国にはがん検診に携わっている学会は多数あるが,いずれも共通の連なりがない。癌学会,癌治療学会と横並びに検診・診断を主体にした検診・診断学会は必要であり,これによってがん検診・診断の発展が期待できる」という信念をお持ちでしたが,平成3年10月日本肺癌学会,日本婦人科がん検診学会,日本腎泌尿器疾患予防医学研究会,日本乳がん検診学会らと連携してがん検診準備会を発足させました。平成4年11月に日本小児がん学会が参画して,本準備会を「がん検診協議会」と改称されました。さらに,平成5年9月に日本医学放射線学会が参画して, 「がん検診協議会シンポジウム」の開催を通じて,7学会を母体学会として本協議会を学会にするべきであるという機運が急速に高まって,平成6年12月9日第2回がん検診協議会シンポジウムの折に 「日本がん検診・診断学会」の誕生に至ることができました。このような経緯の中で,基礎的研究を主体にした癌学会,治療を主体にした癌治療学の二者に並び称せるがん検診・診断を主体とした日本がん検診・診断学会を設立できたことは,日本消化器集団検診学会理事長としてなお頑張っておられた有賀先生のお力なくしては実現でき得なかったことだと思います。

 有賀先生は昭和29年6月に日本大学第三内科学教室を開講されてから昭和52年10月定年をお迎えになられるまでの実に23年間にわたって主任教授をお務めになられましたが,その間教育者として,研究者として,また管理者として優れた力量を発揮されて,多くの有能な人材を医療界に輩出するとともに,昭和43年4月から49年11月まで駿河台日本大学病院院長を,次いで昭和49年10月より50年10月まで日本大学医学部長 (大学院研究長,日大医学会会長) をお務めになられ,また日本大学法人本部におきましても日本大学評議員,日本大学保健体育委員会委員長,日本大学原子力研究所次長,日本大学理事,日本大学顧問等を歴任されまして大きな足跡を残されてきました。さらに,学外にあっては日本学術会議会員 (第9期,10期,11期), 東京都がん検診センター理事,財団法人日本予防医学協会副会長,東京都成人病対策協議会委員,私立医科大学協会理事などをはじめ数々の要職を兼任されました。 また,日本消化器集団検診学会理事長の他,日本消化器病学会理事・監事,日本がん検診・診断学会理事長,日本消化器内視鏡学会評議員・監事,日本癌治療学会評議員,日本超音波医学会評議員,日本糖尿病学会評議員等の学会の役職と学会長などを担当されています。有賀先生は,学内外におけるこのような華々しい学術研究と教育に対するご功績により昭和52年5月勲二等に叙せられ瑞宝章を受章されました。

 有賀先生は,日本大学医学部及び附属病院の発展への道とともに歩んでこられましたが,日本大学医学会においても昭和12年学会設立当初から,戦前・戦後を通してその発展まで多大な貢献をされてきました。先生は,このような経緯からこの医学会に対する特別な思い入れがありまして,平成17年11月に 「日本大学医学会有賀賞」 設置の基金として医学部に多額の浄財をご寄付されました。 本賞は,有賀先生のご意向にそって,医学の進歩,発展に寄与し,会員相互の医学知識の交流と向上に資するため,顕著な研究業績を上げた会員を表彰し,学術ならびに研究の進歩・発展に寄与することを目的として制定されました。生涯を通じて日本大学医学会の更なる活性化と発展を熱望してやまなかった有賀先生に心から敬意と感謝を捧げますことはもちろんでありますが,日本大学医学部はもちろん,わが国の医学界の歴史の一頁に深く刻まれて永くその功労が称えられて行くものと思慮しております。

 以上,恩師有賀先生が歩まれた長い年月を追想します時,一言では言い尽せるものではありませんが,先生の遺された数々の偉大な足跡は永遠に不滅であると思います。 有賀先生,生前頂戴しました数々のご恩に報いることなくお別れすることになりましたことは限りない悲しみでありますが,どうぞ安らかにお眠り下さい。改めて,心からご冥福をお祈り申し上げます。

合掌

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